開戦が至るまで 天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い後、秀吉は大阪城を築城した、緒将を大阪に招いたが織田信雄(信長の次男)は
秀吉の家臣の礼を認めることに反発し招きに応じなかった。
これに対して秀吉の処置は信雄の家老(岡田、浅井、津川)秀吉に通じていると言う噂を流した。
信雄は疑心暗鬼ながら、三人を処刑した。これを口実に秀吉は信雄を攻撃、信雄は徳川家康に援軍を依頼した事から
豊臣対徳川の戦いにと進んでいく。 始めは小牧山辺りでの戦であった。 3月7日家康は8千の兵を率いて浜松城から出陣した。
13日に家康は清洲城(信雄居城)に入った。同日、織田信雄の譜代の家臣池田垣興が裏切り秀吉方に付き犬山城を攻め取った。
これに対し15日家康は小牧山城へ移り秀吉方の森長可も小牧山城を狙っていため、16日小牧山を望む羽黒に陣を張った。
この動きを察知した家康はすぐさま酒井忠次、榊原康政らの兵を羽黒へ動かした。17日早朝、忠次隊は長可を攻めた、長可は奮戦したが
猛攻に耐えかねて潰走した。これが羽黒の戦い(八幡林の戦い)と言う。家康は小牧山城を占領し砦や土塁を築き秀吉に備えた。
大阪城築城で多忙な秀吉であったが。3月21日大阪城を出陣し27日は犬山城に入り28日は楽田に着いて本陣とし、小松寺山砦、小口城、
内久保砦、岩崎山砦、二重堀砦、青塚砦、外久保砦に陣を張った。この間多少の諍いがあったが、両者共動いた方が負けと思い互いに
睨み合い膠着状態が続いた。4月4日膠着状態を打開するため、池田恒興が家康が小牧山にいるいじょう、本拠の岡崎城は手薄に
なっているはず、この隙間に岡崎城を攻めれば勝利は間違いなしと秀吉に進言したが。(信長の得意とした、中入り作戦。
信長の成功も意外に少なく)秀吉は断ったが。羽黒の戦いの汚名返上で功を焦る恒興は、翌日再度中入作戦を申し入れ
(恒興軍は寄せ集めで誰も秀吉の家来とは思ってなくこの微妙な立場から、
恒興の機嫌を損ねると緒将が寝返り家康方に付く恐れもあり承諾した。
この説は通説であるが、作戦が失敗したため池田恒興案と太閤記に記載されたと思われる。秀吉が自ら取り入れたと思われる。
楽田城と岩崎城
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4月6日夜半に先鋒の恒興隊から出陣した。家康は4月7日に秀次勢が篠木付近に宿営したとの情報で、8日夜小牧山に六千五百の兵を残
し一万三千五百の兵を自ら率いて出撃した。この中から四千五百を先鋒として小牧山を出陣し午後11時頃に小幡城へ入った、家康本隊は
午後8時頃出陣で、先鋒隊は甲州武田の旧臣を中心とした井伊直政の赤備え軍だった。9日2時頃から家康先発隊は秀吉軍の後尾となる
秀次勢の追撃を開始し、一方、9日早朝、秀吉の先鋒隊恒興軍は丹羽氏次の弟、氏重が守る岩崎城から銃撃され、恒興の馬に当り落馬し
た。この事態に激怒した恒興は岩崎城を2時間ほどで落城させ、丹羽氏重若干16歳で戦死した。これが岩崎城の戦いと言います。一方秀
次隊は白山林で休憩していた、そこへ榊原康雅ら家康の先鋒隊から背後から攻撃され、不意をつかれた秀次隊は潰滅した。この戦いで目
付役の木下祐久(おねねの父)やその弟木下利匡も戦死した。総崩れした秀次隊は長久手方面に敗走した。この戦いを白山林の戦いと言います。
hori
堀久太郎秀政本陣秀次隊より前にいあた堀秀政隊に、秀次隊敗戦の知らせを聞いたのが、約2時間後だった 秀政は直ぐに引き返し、康政勢と桧ヶ根で対戦した、七時頃戦闘が始まり、地の利を得た 戦上手の秀政に追い詰められ、康政は敗走した。 これを「檜ヶ根の戦い」と言う秀吉軍の誰一の勝利だった。
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城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
nagakute
長久手古戦場跡古戦場は現在は立派な公園になっており、資料館がありそこで史跡散策マップをもらい少し廻ってみました。 この戦いは信長が亡き後、秀吉が力を付けて来た事に対して、 み小牧山と犬山を中心に繰り広げられた戦いです。 天正12年4月9日、この地長久手が主戦場となり秀吉軍が苦戦した地である また多くの武将が戦死死致しました1584年出来ことです。
愛知県長久手町武蔵野塚
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桧ヶ根の戦いで勝利したものの、家康本隊を発見した秀正は深追いは不利と判断し、急いで自軍をまとめて北方へ退散を始めた。色金山
周辺に着いた家康本隊は御旗山から仏ヶ根、前山に陣を構え右翼に家康三千三百左翼に井伊直政三千更に信雄勢三千の兵を配置した。
一方岩崎城で勝利した池田恒興父子:長可は約三百の首実検をし、朝食を取りながら祝宴を開いていた。そこへ、三好秀次敗戦の知らせが7時頃届いた。
恒興、長可隊は、秀次敗戦を聞き、即に布陣を終え家康軍に対して右翼に恒興の嫡子:池田元助:次男:輝政隊四千 左翼に長可隊三千、
後方に恒興隊二千.計九千の兵が対崎した。そのまま両者の睨み合いが役2時間続き10時頃、両軍入り乱れた戦とが2時間程繰り広げられ一進一退を
繰り返しいたが、均衝を破った長可が直政勢の銃弾を浴び戦死したことから、家康勢が有利となり、恒興も永井直勝の槍を受けて討死。
元助も安藤直次によって戦死した。輝政は戦場から離脱し、秀吉軍はほぼ潰減状態となり、家康軍が勝利した。これを長久手の戦い(仏ヶ根の戦い)という。
城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
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御旗山 富士浅間神社が奉られろようになり、 富士が根とも呼ばれるようになった。 愛知県長久手町湫字富士裏41 |
城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
最後の城主*加藤太郎右衛門忠景は、日進岩崎城主*丹波氏の娘と結婚した縁で、小牧、長久手の戦いの時は家康に従い、 |
tinoike
城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
血の池公園天正12年(1584) 4/9 長久手の討討討戦いでは、この地一帯が主戦場となり、付近の御馬 立山に布陣した家康軍と、秀吉軍の池田勝入、池田本助、森長可等の武将が対崎し、 死闘を繰り返した結果、秀吉方の三武将が討死しました。 血の池は家康方の渡辺半蔵などの武将が血槍や刀剣を洗ったことから血の池の名がついた と言われています。毎年合戦の行われた頃になると池の水が赤く染まったと伝えられおり 名松鎧掛けの松と共に永く人々の心に語り継がれきました。 |
その後。勝利した家康軍は、小幡城に引き返した。一方、秀吉は午後になって白山林の戦いの敗戦を聞き、二万の軍勢を率いて竜泉寺城に入った。
夕刻、家康が小幡城に居る事を知り、翌朝攻撃をする事を決め、念の為守りを固めるようと竜泉寺城に一夜で堀を掘った。
ところが家康は9日夜半小幡城を出て小牧山へ戻った。それを知った秀吉は4月10日に楽田城へ引き返し、
5月1日には大阪城に向かった。5月3日に織田信雄は小牧山から長島城へ戻った。6月12日、徳川家康も小牧山から離れ清洲城に入った。
6月16日、滝川一益が家康方の蟹江城を攻撃したが、家康勢に蹴散らされた。9月9日、家康の呼応した佐々成政が大軍で能登の末森城を攻撃し、
落城目前で前田利家の猛反撃を受け退却した。戦況としては家康、信雄の方が有利だったが、合戦から半年以上も経ってから秀吉は
11月11日本領安堵を条件で単独講和を申し入れた。信雄自身が始めた戦で、しかも家康の力を借り優勢だったにも関わらず
自己保身の為に秀吉からの講和を承諾した。それを知った家康は、戦いの大義名分を失ったため11月21日に兵を引き上げた。その後秀吉は
滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を持ち込んだ。家康は次男:於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にと大阪城へ送ることで
和議の形をとった。こうの様な型でこの戦いは幕を閉じることになった。その後秀吉は配下として上洛を再三に渡って促したが家康は応じなかったため、
秀吉の妹を家康の正室として、母を人質に差出などした。合戦終了から二年経ってから天正十四年(1586)10月27日、ついに家康は上洛し、
大阪城で秀吉と会見し臣従を誓った。