城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門) nagasino
武田軍が豊川を渡り、連吾川対岸の台地に布陣し たのを、知ると極楽寺から茶臼山に本陣を移した。 みのやんが訪れた時は茶臼山公園と表示されて いましたが、山は荒れ放題で、何処が陣跡か? 遺構は在るのか?、無いのかサッパリ判りません
愛知県新城市牛倉城山 tokugawa 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門) 愛知県新城市竹山 2008/10/7 訪門 天性元年 (1575)5月武田軍に包囲された、長篠城 を救うために、家康は信長と共に設楽原に出陣した 家康はここ弾正山に本陣を置いた。家康は多大な犠牲 を払ったのは、 岡崎信康は徳川家康の嫡子で、設楽原の戦いの時は十七歳で参戦した。 信康は松尾山に陣を張り、家康の本陣の後方で、信長の本陣のj茶臼山の 南側にあたる。 愛知県新城市富永字松尾 2008/10/7
岡本信康の本陣
takeda 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
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天正十二年(1575) 長篠の戦いの時 武田勝頼がここに砦を築いた。 新城市長篠字弥陀前 sidarahara
©minoyan
長篠&設楽原の戦い
設楽原戦い
馬場美濃守信房の墓
武田信玄大塚
武田信玄大塚
天正3(1575)年、織田、徳川連合軍と武田軍の間で戦われた設楽原の戦いは連合軍側の大勝に終った。
この戦いで両軍あわせて1万6千もの戦死者があったといわれている。
戦場のかたづけに従事した竹広の村人は、この地に戦死者をねんごろに葬り、2つの塚を築いて弔った。
これが「信玄塚」である。当時すでに亡かった信玄の名を冠して、信玄塚と呼ばれたのは、いかに信玄の
偉名が大きかったかを物語っている。毎年8月15日の夜この地で戦死者の霊を弔う「火おんどり」が
行なわれる。60本から70本のアシとシダで作った火のついた大松明が勇壮にうち振られる様は、
戦場で苦闘した武田軍の様子を思い起させる。
(現地説明板より)
城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
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織田信長の本陣
信長に援軍を依頼したからだと言われている。
徳川家康の本陣
武田勝頼の本陣
愛知県新城市長篠字弥陀前
医王寺
長篠の戦いは,三河進出をねらう甲斐の武田勝頼と,それを防ぐ徳川・織田連合軍との戦いである。家康は奥平貞昌(おくだいらさだまさ)を
篠城主として武田勢に備えさせるが,1575年(天正3)長篠城は武田勝頼軍2万5000に取り囲まれる。窮地に立たされた奥平貞昌は,
居強右衛門(とりいすねえもん)を使者として,岡崎にいた織田信長と徳川家康に救援を要請した。信長と家康はすぐに軍を動かし,
設楽原(したらがはら)での決戦となった。信長は武田の騎馬軍団を防ぐため,乾堀(かわきぼり)と土塁を築かせ3重の馬防柵を設けた。
また鉄砲隊を組織し3段に並ばせ連続して発射し,弾込めに時間のかかる火縄銃の弱点を克服したとされている。戦いは夕方まで続き,織田・
徳川連合軍の圧勝であった。両軍の死者は合わせて1万6000人に及び,地元の村民はこれらを手厚く葬った。
現在そこに信玄塚と呼ばれる墓碑が建っている。
城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
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医王寺山砦
土屋昌次の父・金丸虎義は武田晴信の守役で、昌次は次男だった。ちなみに、金丸氏は足利氏一門の一色氏庶流で、昌次は「奥近習六人」の一人として信玄の傍近くに仕えた。
長篠・設楽原合戦では、三重柵の二重まで突破した所で一斉射撃を受け戦死した。
天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文献と時代考証による復原である。
(地説明板より)
勝楽寺に陣を構えた赤備えの山縣三郎兵衛昌景が、勝楽寺から出てきて、徳川軍の大久保隊と激戦を繰り広げた場所です。
甘利信康は、信玄を若い頃から支えた老臣・甘利虎泰の子である。長篠・設楽原合戦時には父・兄は既に亡くなっており、弟の甘利信康が百騎の侍大将として小荷駄奉行を勤めた。
いろはかるたには、「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」と書かれています。
天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、
左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、
延長2粁余(2km余)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、
背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、
勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。 (現地説明板より)
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