城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
大高城 桶狭間の戦いの際、義元は松平元康(徳川家康)に大高城に 兵糧を入れることを命じ、見事に成功した。 これが有名な「大高の兵糧入れ」である。 愛知県名古屋市緑区大高町城山 永禄三年(1560) 今川義元は5月12日2万5千の兵を率いて駿府から出陣、先鋒の大将は井伊直盛で、これに松平元康が従い 東海道を西に進んだ。5月19日松平元康が千の兵を率いて丸根を落とす(夜明け前の午前4時頃) ほぼ同時頃、朝比奈泰朝、井伊直盛が千の兵を率いて鷲津砦を落とす。 (両砦とも7時間余りの激戦のうえ今川方が勝利した) 信長の動き 5月19日午前8時頃熱田神宮で戦勝祈願し、軍勢千人余りを率いて丹下砦を径て善照寺砦に10時頃到着。 正午頃、今川勢は桶狭間に到着、信長は士気を高めるため佐々隼人正隊(300余り)が今川に攻撃を開始したが 佐々隼人正、千秋四郎はじめ五十騎が討ち取られる。今川隊は連勝の郎報で、おけはざま山にて、昼食がてら 休息をとった。佐々隊の敗北を見た信長は中島砦に移動した。12時40分頃信長の配下の簗田出羽守が今川勢が おけはざま山で休息中である事を進言した。(今川の先鋒隊の鵜殿、鷲津の朝比奈、鳴海城の岡部勢は信長を攻撃せず。
静観してやり過ごした) 信長はすぐさま今川本隊へ向う、進軍中強い雨が十分程度降った、太子ヶ根で待機して居た信長は 山上の今川本陣をめがけて、三千の兵が真正面から攻撃、突然の攻撃で今川勢の部隊は乱れ敗走した。午後2時頃 おけはざま山を下り東海道方面に逃れようとしていた義元発見、三百騎程で義元を囲み信長の家臣:服部小平太が槍で 義元を刺し、毛利新助が背後から組みついて首をはねた。 この戦いの戦死者は今川軍二千五百人。織田軍八百三十人ほどで、二時間という短時間の戦であった。
鷲津砦 今川義元に大高城を奪われた織田信長が、今川勢の尾張の
鷲津砦 侵入を防ぐため、丸根砦ともに築いた、 桶狭間の戦いの時には、鷲津砦は今川方に落とされた。 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門) marune 丸根砦 今川勢に大高城を落とされた後、大高城を包囲の為 丸根砦と鷲津砦は永禄三年(1560)築かれた。 丸根砦は佐久間大学盛重が守っていたが 松平元康(徳川家康)に攻められ、丸根砦は落ちた。 佐久間大学盛重は討ち死にした。 名古屋市緑区大高町丸根 narumi 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門) 鳴海城 鳴海城は織田軍を一歩も寄せ付けず 主君。義元の首と引き換えに城を 明け渡し静岡市の臨済寺に葬った。 名古屋市緑区鳴海町 平城
©minoyan
桶狭間の戦い
緑区桶狭間古戦場公園
古戦場公園
2007/12/8 訪城
名古屋市緑区有松町桶狭間
愛知県豊明市
ootaka 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園内
wasizu
愛知県名古屋市緑区大高町鷲津 2008/1/4
訪城
008/12/8 訪城
今川義元討死地
田楽坪は義元公休息地でもあり地獄の地
義元公水汲みの泉
桶狭間古戦場 豊明市 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
愛知県豊明市 桶狭間古戦場「
1七石表(一号碑)
明和8年12月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって
建てられた七基の石碑。一号碑は今川義元の戦死した場所を示す。
二号碑は松井宗信戦死の場所。三号碑以下は義元の武将五人の戦死
の場所であり、氏名不詳である。 今川義元仏式の墓
万延元年に建てられた。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく
墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれている。
戦人塚 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)
戦人塚(国指定史跡)
愛知県豊明市前後町仙人塚曹源寺の快翁龍喜和尚が明窓に命じ、戦死者の屍を集めて葬った塚で、 昔は「駿河塚」と呼んでいたと伝えられています。塚上の碑は、
元文4年、180回忌の供養祭に建碑されたものといわれています。
今川義元の本陣跡(名古屋市緑区)
2011
訪問