城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

 関ヶ原の戦い

関ヶ原の合戦に至るまで  慶長三年(1598)豊臣秀吉が没し、その子:秀頼は弱冠6歳。関八州二百五十五万国余り有する徳川家康は

次期政権を狙い、加藤清正:福島正則らの武断派と石田三成を中心にする文吏派対立を利用し、更に秀吉が家康の台頭を封じるため、

設けた五奉行制の切り崩しを始めた。家康は前田利家の嫡男:利長が首謀者とした家康の暗殺計画の噂を流し、五奉行の浅野長政:

大野治長:土方雄久らに螯居などの処分を命じた。利長には謀反嫌疑を主張して豊臣軍による前田征伐を計画したが、利長は実母:芳春院

を人質として出し、家康への従順を示した。また、前田利家死後、武断派の加藤清正らが三成を攻撃をしようとしたため、三成の五奉行を

免職とし、佐和山城へ螯居させた。 その後家康は大坂城に入り、縁組:加増:転封などの謀略を進めた。その頃:会津の上杉景勝が城

普請や、橋、道路の整備:軍備増強を進めていた。家康は景勝の行為を謀叛として、上杉征伐に豊臣家臣団を引き連れ東国へ出陣した。

関ケ原町観光ホームページ

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 徳川の陣

 

 
   岐阜県関ヶ原市関ヶ原  

        2009/03/28   訪城

 

徳川家康            

   の陣 

陣地図 

家康ははじめは桃配山陣を置いたが、

戦況が良く解らないため十時頃この地に

陣を進めた。最後まで東軍の指揮をした

所で、戦いが終わってから敵の首実検を

した所でもある。

家康の陣跡 

             


   

     国道21号線を岐阜方面に車で関ヶ原町辺りを走っていたら、旗が目に付き急遽寄ってみました、小高い山の上に徳川家康最初陣跡と                                                                                   

                  大きな縦長看板目には付きました。少し山を探索しました、これと言った物は気が付きませんでした。                                                       桃配山           

 葵の旗が10本ちかく風に靡き、これがしにでっかい碑が建って下りました。

 慶長五年(1600) 9月15日末朝、家康の配下三万余り桃配山周辺に陣を取り

徳川家康はこの山頂に馬印を掲げて指揮をとり最後の陣地に変わるまで、この山で

 陣営の報告、作戦会議等開かれた山でしょう。    2009/05/05 訪問

                                                              

      桃配山(徳川家康の最初の陣)                                                                                                                                   



 城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

                                          笹尾山(石田三成陣)                                                           

笹尾山  笹尾山 
  笹尾山

                                                                   関ケ原町観光ホームページ

         笹尾山                                                                            

慶長5年(1600) 笹尾山一帯の石田隊六千余りは、正面は竹矢来の柵を二重に配置し、の                                                                  

前衛隊長の島左近指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。松尾山                                                 笹尾山                 

の小早川らの裏切りは戦況を大きくかえた。西軍の総兵力

三成は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となると、                                                                 

  は最早ここまでと三成は北国街道沿いに敗退した。                                                                 

    陣跡はよく整備されており、楽しく登れますよ〜                                                              

      岐阜県関ヶ原市関ヶ原町   笹尾山                                                         

                                                                                                                                                                                                                                             



7月2日:三成は大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、西軍に吉継を引き込んだ。

7月12日:佐和山城で三成、吉継、増田長盛、安国寺恵瓊が密談し、西軍総大将に毛利輝元を要請する事に決めた。

7月18日:三成は挙兵し、家康の家臣・鳥居元忠が預かる伏見城を攻めた。伏見城は宇喜多秀家、島津義弘らの攻撃で、8月1日に落ちた。

8月10日:三成は美濃方面を抑えるため、佐和山城から大垣城に入った。

8月22日:江戸に滞留する家康を除き、福島正則、池田輝政の先発隊が東海道を西進し、河田(現一宮市)から木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突した(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。

8月23日:清州城に集結した東軍は更に進軍し、織田秀信(三法師)城主の岐阜城を落とした。家康は江戸で諸将に書状を書き送り、豊臣恩顧の大名を引き入れようとした。その後、約3万の兵を率いて東海道を西進した。
家康の三男・徳川秀忠は約3万8千の兵を率い中山道を進んだが、途中、真田昌幸の籠もる上田城を攻略するのに執着し、上田城で足止めを食らったため、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

9月14日:家康は赤坂の岡山に設営した本陣に入った。
三成は家臣である島勝猛(左近)の進言により、士気を高めるために赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を出し、東軍の一部を誘い出して打ち破った(杭瀬川の戦い)。
大垣城の石田三成らは、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という家康の流言を信じ、両軍は夜のうちに関ヶ原へ動いた。

 
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開戦の地

 

 関ヶ原の戦いの開戦の地

 

関ヶ原の戦い 開戦の地                         

岐阜県関ヶ原市関ヶ原町 



2009/03/28                          

      霧が薄くなり視野も広がった午前8時、先鋒の福島正則は井伊隊の旗が動くを見て、先陣の手柄を

      取られてなるものか、宇喜田隊にi一斉射撃を浴びせた。一方井伊隊も福島隊に遅れてなるものか

           島津隊の陣に向って攻撃を開始した。これにより合戦の火蓋が切り落とされた所です。

                   2009/03/28  訪問       現地説明板より



                           戦いの当日

   9月15日午前6時頃、東西両軍は関ヶ原に約18万(東軍10万4千、西軍8万2千)の兵が集結した。
   関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、見通しが悪かった。

   濃霧で隣の軍の様子も分からないため、両軍は2時間ほど対峙し続けた。
やがて、霧が薄くなってきた頃、松平忠吉の小隊と井伊直政が「物見」と称して福島隊の前方へ出た。家康から先鋒を任された福島正則は抜け駆けかと詰問中、忠吉の小隊は突然、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲し、戦いの火蓋が切って落とされた。

発砲された宇喜多隊も射撃で応戦した。福島隊6千と宇喜多隊1万7千は互いに譲らず攻め合い、更に両軍は入り乱れた。

三成は、開戦から2時間を過ぎても参戦しない武将に、戦いに加わるよう狼煙を上げた。西軍は総兵力のうち、戦闘に加わっていたのは3万5千ほどだったが、戦局はやや優位だった。
松尾山の小早川隊と南宮山の毛利隊が東軍の側面と背後を衝けば確実に勝利すると思い、島津隊に応援を要請したが、島津は拒否し、毛利秀元は、吉川広家に道を阻まれ、参戦できなかった。吉川広家は毛利家の所領安堵を条件として、家康側に内応していた。小早川隊は東西どちらにつくか判断しかねて戦況を見ていた。

正午過ぎ、家康は、内応を約束していた小早川秀秋隊が動かないことに腹立ち、松尾山に向かって威嚇射撃を命じた。どちらにつくか迷っていた小早川秀秋は、この威嚇射撃に家康側につくことを決意し松尾山を下りた。

小早川秀秋隊1万5千6百は、大谷吉継隊右翼を攻撃した。更に、それまで様子を眺めていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの西軍諸隊も小早川軍に呼応して東軍に寝返った。これらの裏切りで戦局は一変した。

西軍総崩れとなったが、島津義弘隊が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退した。島津隊は島津豊久や阿多盛惇(長寿院盛惇)らを犠牲にし、最後は約80の手勢となったが、撤退に成功した。

合戦は、小早川の裏切りにより、東軍の大勝利となった。この合戦により天下は名実共に家康のものとなり、その後の、大阪冬の陣、夏の陣によって豊臣家が滅び、約270年も続く徳川幕府の礎となった。

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宇喜田秀家の陣

 

 

   宇喜田秀家の陣

 

        

 

 

 

  西軍の副大将の秀家は、1万7千の兵を配して

 中山道を押さえた。午前8時頃、東軍福島勢の猛攻

 から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊と激突

 となりました。宮本武蔵が戦ったのもこの辺りです

 秀家が敗走中、池田郡樫村の矢野五右衛門に助け

 られ、その後八丈島へ流され、83歳まで生き延びた

          現地の説明板より   2009/03/28

 

 

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小西行長の陣跡 

 

 

  小西行長の陣 

 

 

 

 

小西行長は、ここ北天満山に四千の兵を率いて

参戦しました。味方の合図と共に、西軍の主力 

の一つとして勇戦しています。しかし小早川の

裏切りで、小西隊は混乱を招き、それに乗じた

本多隊の襲撃で、兵士達は敗退し始めのは 

午後1時過ぎの事でした。    2009/03/28

         現地の説明板より

 

 

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 島津義弘の陣

 

 

 
 

島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道 

抑える為、ここ小池村に陣を構えた。西軍

が敗退する中、島津の勇姿うぃ家康に見

せるため、背進を最強の武器に替えた

その決断こそ、現代にまで語り継がれて

いる「適中突破」なのです。 2009/03/28

        現地説明版より



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豊久の墓 

島津豊久の碑 

 
 養老郡上石津町大字牧田字烏頭坂          2010/05/04   訪問

 島津塚

 



 


  敵中を突破し、鳥頭坂のしんがり戦で重傷を負った島津豊久は、

  従士に介護されながら、やっとこの地に辿り着いたが、遂に自刃して果てた。

  時に31才の若さであった。この時、樫原の名手三輪内助入道一斎は

  豊久の以外を懇ろに葬り、瑠璃光寺を菩提所として祀った。

  豊久の墓は、ここカンリンヤブと呼ぶ林にあり、島津塚ともいう。

  また瑠璃光寺には豊久の位牌も祀られている。 


  

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島左近の陣 

三成が家禄の半分まで与えてまでも仕官させた

と言われる左近です。石田隊の先手として布陣

黒田:田中隊と激戦後、家康の本陣に迫ろうと

しましたが、銃弾をを受けて討ち死にしたとも

言われています。鬼の左近:謎の猛将像は、

様々な姿で描かれている。 現地説明板より 

     島左近の陣 

関ヶ原配置図 

 

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                            城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

大谷吉継の陣 

 大谷吉継の陣

         (吉隆) 

 親友三成の要請を受けた吉隆は、死に

  装束でここ宮上に出陣した。9/3到着後

 山中村の地案内と村の衆の支援で、

 宇喜田隊の陣造りも進めて、15日末明

 の三成の到着を待つたと言われている

    現地説明板より  2009/10/24 

 

 

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    大谷吉隆(吉継)の墓

 

 吉継は三成の挙兵に対し、再三思い留まる

 よう説得したが、三成の決意はは変わらず、

 旧友の苦痛を察した吉継は、とうとうと死を

 共にする決意をし、死に装束でここ宮上に

 出陣した。吉継は首は敵方に渡すな、と言い

 残して自害した。墓は敵方の藤堂家が建てた。

    現地説明板より  2009/10/24 訪問

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        黒田長政:竹中重門の陣

         岡山(丸山)烽火場

 

         黒田長政の陣

         竹中重門の陣

 

 この山の山頂には長政:重門が陣を敷

 いた。ここから狼煙が上げられ、東軍に

 攻撃の合図が出された。西軍も松尾山

 北天満山にも狼煙が立ち昇り、両軍の

 戦闘が午前八時頃から開戦となる。

           2009/10/24   訪問

  前方の松尾山の旗が見えました。 

 



                                          ann


 

   安国寺恵瓊の陣  

安芸の守護武田氏の遺児といわれる。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家した。毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。関ヶ原合戦では石田三成らと共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込むことに成功した。合戦当日は南宮山のふもとに陣を構えたが、吉川広家の裏切りで動くことができず敗戦後逃亡。京都に潜んでいるところを捕まり六条河原で斬首された。

                              (現地説明板より) 
 
 

         
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       長束正家の陣

長束正家の陣 
  長束正家は、文禄4年近江水口5万石の領主となり、ついで12万石に加増され、従四位下侍従に叙任、慶長3年(1598)7月五奉行の一員に列せられた。同5年関ヶ原合戦では西軍に属し、9月15日の決戦では1500人の兵とともにここ境野に陣し、合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があった。その後、三成方の敗北を聞くと水口城に帰城しましたが、池田長吉に欺かれ自殺した。

                                  (現地説明板より) 
 
                     
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  井伊直正:松平忠吉の陣 

 

  井伊直正の陣

          松平忠吉の陣

 

 

 中山道の敵を目標とする福島、藤堂、 

 京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川

 の隊、その中央当たるこの地に家康の

 四男の忠吉、井伊直正が約六千の兵

 で陣を構えていた。午前8時頃、軍監

 本多忠勝より開戦を促され、宇喜田隊

 の前に出たが、先鋒は福島正則である

 と咎められ、方向を転じて島津義弘の 

 隊に攻撃し、開戦の火蓋が切られた。

    (現地の説明板より) 

 

                  
                                                             関ケ原町観光ホームページ

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福嶋正則の陣 

 

  

 
東軍の先鋒となった福島隊(約六千)は

 ここで南天満山の宇喜田隊と対陣し

 ています。一番鉄砲の功名を井伊隊に

 横取りされるや、正則自ら鉄砲隊に指

 揮して、宇喜田隊に一斉射撃を浴びさせ

 る中、一進一退の攻防戦が続きました。

 首とりで手柄を立てた可児才蔵が、

 家康の賞賛を受けとされています。

      (現地説明板より) 

  

      福嶋正則の陣

 

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藤堂高虎の陣 

 

     藤堂高虎の陣

               京極高知の陣

 

 

 

 

 藤堂、京極隊は、ここ中山道の南に位置する

 柴井に陣し、松尾山や山中村などの西軍に

 備えました。ところが小早川の寝返りで、戦況

 は一変したので、大谷隊と小早川隊との壮絶

 な死闘の真っ只中へ、本両隊が突入し、

 これに呼応した脇坂隊らの攻防も加わり、

 大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。

   (現地の説明板より) 2009/10/24 訪問 

 

 
 

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                            城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

   
 

小早川秀秋の陣

 
松尾山 
     
     
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                           小早川秀秋が西軍を裏切り、これにより戦況は一変となす。詳細は松尾山城のページにて。

   

 

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 脇坂安治の陣

 

脇坂安治の陣 
脇坂阿治の陣 

  安治は、関ヶ原の闘いの当時は洲本城主で

 かつてはしずがたけの戦いでは七本槍の一人

 として名を上げた武将でした。東軍に通じて

 いた安治にとって、小早川の裏切りは願って

 無い事でした。しかも東軍が優勢に転じる頃

 を見計らい、自ら槍を振るい、大谷隊の側面

 に先頭を切って戦ったそうです。 

 

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        本多忠勝の陣 

軍監として家康を守り、関ヶ原の中央に進出。生駒・金森・古田・織田の諸隊が備える背後にある家康の本陣を背にして麾下の隊を指揮した。福島・黒田隊など先陣が進撃し、金森・織田等の諸隊が前進すると忠勝も先陣の井伊直政に負けじと梨木川北方で島津隊と奮戦した。戦後伊勢桑名10万石に転封された。

              (現地説明板より) 
本多忠勝の陣 


tanaka 

 

    田中吉政の陣

田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が2・3百m程引き下がる。そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開された。三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後8日目のことでした。

               (現地説明板より) 
田中吉政の陣 



                            城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

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広塚為弘の陣(西軍)

    平塚為広の陣

 
  合戦当時、垂井城主(1万2千石)だった為広は、吉隆(大谷吉継)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦ぶりは目覚しかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の潰滅を見極めた為広は、辞世の句を打ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。

               (現地説明板より) 


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           垂井一里塚

        
          岐阜県不破郡垂井町


    浅野幸長の陣
浅野幸長の陣 


 

浅野幸長の陣
浅野幸長は、五奉行の一人で、浅野長政の長男である。関ヶ原の合戦時は、甲斐府中十六万石の領主だった。石田三成とは犬猿の仲で、前田利家が亡くなると、加藤清正ら七将で三成を襲った。関ヶ原合戦では東軍に属し、池田輝政らと岐阜城を攻略。合戦当日には南宮山の西軍に備え一里塚付近に陣を構えた。

垂井一里塚
慶長9(1604)年徳川家康の命により主要街道に築造された一里塚の一つ。江戸日本橋より一里毎に街道の両側に五間四方の塚を築き、頂上に榎や桜、松を植えた。
垂井の一里塚は南側の一基だけがほぼ完全に残り、国の史跡に指定(昭和五年)されている。中山道には国指定一里塚は二つありそのうちの一つで貴重な一里塚である。頂には現在桜の大木の他、多くの木が生えている。


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      岐阜県不破郡垂井町垂井



     池田輝政の陣


   (春王 安王の墓同所)

小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死すると家督を継ぎ、池尻城主、大垣城主、岐阜城主を経て三河吉田15万2千石の領主になりました。徳川家康の息女督姫をめとりました。関ヶ原合戦では東軍に属し、織田秀信のこもる岐阜城を攻略、合戦当日は南宮山の西軍に備え、御所野に陣を構えました。合戦後は姫路52万石に加増され、姫路宰相と呼ばれました。

                (現地説明板より) 
池田輝政の陣 





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     吉川広家の陣

毛利元就の次男・吉川元春の子。文禄・慶長の役では石田三成と対立した。関ヶ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら本家の輝元が西軍に属したため、主家の在続をはかり、東軍に内通した。合戦当日、南宮山のふもとに陣を構え、毛利隊が合戦に参戦するのを押し止める役割を果たした。しかし、合戦後は広家の思惑がはずれ、毛利氏は大幅に領地を削減されることとなった。

             (現地説明板より) 
 



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東塚

 

 関ヶ原戦い直後に、この地の領主竹中

 家が築いたものです。家康よって、首実

 験の人がここで眠っています。

     東首塚

 



 首洗い井戸などがあります。土や血を

 洗い落とされたと伝えられています。

 








kesen                            城は見るだけ…歩くだけ!N02 (史跡訪門)

 

決戦の地                 

       決戦の地

 西軍が有利な形の戦いでしたが、小早川;脇坂の寝返りから

 たちまち戦況が一変した。小早川勢の大谷隊への突入と              

 同時に,西軍の配色が悪くなり、各軍が浮き立つ中、石田隊

 は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。

 笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったと所です。  

 

現地案内板より     2009/03/28                                

                     

 

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     西首塚

西首塚 

 

 

 

 関ヶ原の闘いで 

 数千の首級を葬った塚です。江戸時代

 十一面千手観世音及び馬頭観世音の

 堂が建てられ、付近の人々が供養され

 ています。  2009/10/24   訪門

 

 

                                 

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